東京電機大学の7つのこと東京電機大学の7つのこと

東京電機大学が
大事にしていること

技術者のための学校
東京・神田に電機学校創立

東京電機大学の始まりは1907年(明治40年)。東京・神田に電機学校として創立されたことから始まります。創立当時は、西洋から優れた技術や最新の機械が日本に輸入されていましたが、これらを使いこなせる技術者が不足していました。そこで、若い技術者であった廣田精一、扇本眞吉は技術を学びたいという人たちのために、立ち上がったのです。

創立当時、二人はまだ30代。開校時は生徒わずか14名の小さな学校でしたが、「先駆的なこと、革新的で創造的なこと、それらすべてに対して、あれほど大胆で意欲的であった教育者を見たことがない」と言われる程の熱意、教育理念が高く評価され、校勢はまたたく間に拡大していきました。

  • 1908(明治41)年、電機学校第一回卒業式。卒業生わずか14名。

  • 神田駅まで続いた生徒の列。大正初期の様子。

  • 1924(大正13)年、NHKに先駆けてラジオの実験放送が行われました。

実学尊重

電機学校創立時の「3つの主義」の一つが「実学尊重」です。本学は「学問としての技術の奥義を研究するのではなく、技術を通して社会貢献できる人材の育成」を目指しました。そのために、実物説明や実地演習、実験や実習を重視し、独創的な実演室や教育用の実験装置を自作するなど、充実に努めました。この「実学尊重」の精神は1949年(昭和24年)の大学設立時の建学の精神となり、現在の東京電機大学にも脈々と受け継がれています。

  • 英文専門書しかなかったため独自の教科書を作成。通信教育も開始し、出版局を設立しました。

  • 実験を実際に見せたいとの希望を実現した実演室。1928(昭和3)年当時の様子。教材も手作りが多かったようです。

  • 1928(昭和3)年に実演室で行われた、高柳健次郎氏による日本初のテレビ公開実験。

初代学長は日本の十大発明家

日本の十大発明家

丹羽保次郎博士が開発したファックス。1928(昭和3)年、NE式電送装置実用化に成功。

1949年(昭和24年)、「実学尊重」を建学の精神として東京電機大学を設立しました。初代学長には、ファックスの生みの親である丹羽保次郎博士を迎えました。

丹羽保次郎博士は有線写真電送装置を発明。日本初の写真電送装置(ファクシミリ)として、昭和天皇即位式のニュース写真の電送に成功し、評価を高めました。

「技術は人なり」

『技術は人なり。丹羽保次郎の技術論』東京電機大学編(東京電機大学出版局)

初代学長に就任した丹羽保次郎博士が唱えた「技術は人なり」は、東京電機大学の教育・研究理念になっています。

立派な技術には立派な人を要するのです。よき技術者は人としても立派でなければならないのです。ですから技術者になる前に「人」にならなければなりません。技術者は常に人格の陶冶(とうや=育てる)を必要とするのです。

「技術は技術者の人格のあらわれであり、良き技術者は人としても立派でなくてはならない」という「技術は人なり」の理念を胸に刻み、東京電機大学は、日本を始め世界で活躍する多くの技術者を育成し続けています。

秋葉原の電気街は、
東京電機大学の学生が生みの親!?

世界的にも有名な電気街である秋葉原。北千住駅から10〜12分程度で行くことができます。 理系学生にとって宝庫のような街で、キャンパスライフをより充実したものにしてくれることは確実。

そんな秋葉原ですが、実は、東京電機大学にそのルーツがあることはご存じでしたか?

戦後まもなく、焼け野原になった神田小川町・須田町に、電気部品を扱う露店が出現。 隣接していた東京電機大学の学生が殺到し、露店数は続々増加していきました。

しかし、その後、法律によって露店が禁止されてしまったため、露店はそこから徒歩10分以内の秋葉原に移転。 現在まで続く秋葉原電気街が誕生したのです。

  • 千石電商
  • 秋月電子通商

千石電商や秋月電子通商には、実験・実習・ワークショップで使う電子部品などを求めて、東京電機大学の学生がよく利用します!